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お知らせ

本ブログを訪問いただき、ありがとうございます。

最近更新が滞りがちですが、記事にしたいネタは多々あるわけでして・・・。

ぼちぼちと埋めていきつつ、新しい話題があれば順次更新していきたいと思いますので、時折のぞいていただければ幸いです。

ちなみに、Twitterは比較的更新頻度が高いので、見ていただければ幸いです。
@miyap720314

引き続き、よろしくお願いします。

2023年1月 7日 (土)

名鉄の硬券入場券を集める

昨年(2022年)は、新橋-横浜に日本の鉄道が開業してから150年を迎えるということで、各鉄道会社は様々な記念イベントを実施してきている。

名古屋鉄道(名鉄)の記念イベントは、名鉄が管理する、無人駅を含めた272駅の硬券入場券を昨年10月14日の鉄道記念日から今年3月31日まで発売するというもの。※「名鉄が管理する駅」なので、JR東海が管理する豊橋・弥富、名古屋市交通局が管理する赤池は対象外。

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全駅の入場券を集める猛者も結構いるらしいが、私はそこまでのことをする気はないものの、私的に思い出のある駅については集めてみようかと、三連休の初日に、「迎春1DAYフリーきっぷ」を使っていくつかの駅をまわってきた次第。

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以下、集めてきた入場券を、それぞれの駅を選んだ理由(のようなもの)とともに紹介してみたい。

 

<人生に欠かせない存在の駅など>

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○柴田駅(常滑線/入場券発売駅:大江)

自宅の最寄り駅。子どものころから親しんだ駅で、現在は高架で無人駅だが、かつては地上駅で日中は駅員がいた。

今も昔も、私の旅の起点となっている。

 

○東名古屋港駅(築港線/入場券発売駅:大江)

自宅に程近い駅ながら、日中は列車が走らない、鉄道で行くには遠い駅。

ゆえに、数えるほどしか訪れていないが、常に存在が印象にある駅である。

 

○中部国際空港駅(空港線)

私的には名古屋空港より利便性が増したこともあって、飛行機での旅を便利にしてくれた駅。

 

○名鉄名古屋駅(名古屋本線)

言わずと知れた名鉄の中心駅。各方面への列車がひっきりなしに発着する難解な駅としてしばしばテレビ番組でも取り上げられるが、私にとっては新名古屋駅と称していた子どもの頃から慣れ親しんだ駅で、全く難解ではない。

肉声での案内とともに、この駅の名物がテレビ式の行先表示。

今でこそ液晶ディスプレイだが、かつてはブラウン管で表示されており、子どもの頃はこれが見たくて駅に通ったものである。

 

○金山駅(名古屋本線)

以前は金山橋駅を名乗り、現在の駅より南側にあって、地下鉄との乗り継ぎには外を歩かねばならなかった。金山総合駅完成で、JR東海道線にも新たに駅ができ、名鉄駅も移転して利便性が格段に向上した。

この駅も名鉄名古屋同様、金山橋時代から慣れ親しんだ駅であり、通勤・通学の乗りかえ駅として、利用頻度は名古屋駅以上である。

 

<思い出の駅>

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○植大駅(河和線/入場券発売駅:阿久比)・知多半田駅(河和線)

植大駅近くに伯母の家があり、子どもの頃はよく泊まりに行った。伯母と一緒に近所の店に買い物に行ったり、喫茶店に行ったり(ちなみに、喫茶店では必ずピザを注文していたことが店の人の印象に強く残っていたらしいことを、後年伯母から聞いた)したことも思い出に残っているが、むろん、電車に乗っていくことが楽しみだったことは言うまでもない。

駅のたたずまいはあまり変わらないものの、近くにあった都築紡績の工場がなくなって、跡地にアピタ阿久比店・ユナイテッドシネマ阿久比ができ、周辺の環境は激変した。

知多半田駅も、伯父の家が徒歩圏内にあるが、こちらは長年一人暮らししていた祖母が晩年に伯父宅に住むようになってから、電車で行く頻度が増したように思う。

駅付近は再開発により風景が大きく変わり、かつての面影はほとんどなくなった。

 

○浄水駅(豊田線)

私の父は福岡県大牟田市の出身で、愛知県内に在住する親類はいないが、母は北設楽郡稲武町(現豊田市)の出身であり、母方の親類は上述の植大・知多半田の伯母伯父はじめ、全員が愛知県内に住んでいる。

その中で、名古屋市内に住んでいた伯母には、特にかわいがってもらった。(思い出はこのブログでも少し触れている。「さようなら、中日ビル。」参照)

この伯母が亡くなる直前に入院していた病院の最寄り駅が浄水駅で、仕事帰りに何度か豊田線に乗ってお見舞いに行っている。

入院期間が短かったため、来た回数はわずかだが、このような次第で印象に残っている駅である。

 

○豊川稲荷駅(豊川線)

小学校入学前から小学校1年・2年の頃、休みになると父や母にせがんでは、名鉄に乗ってあちこちへ連れて行ってもらった。小学校3年生になるとひとりで出かけるようになったが、毎年1月には豊川稲荷に家族で行くのが恒例だった。両親は商売をやっているわけでもないのに、なぜ「商売の神様」である豊川稲荷へ行くかと言えば、当時名鉄が走らせていた初詣特急に乗りたかったから。

当時の名鉄は初詣や海水浴シーズンに合わせて臨時特急を大増発しており、実に楽しい時代だった。私の鉄道趣味史を語る上で欠かせない存在である。

 

○玉ノ井駅(尾西線:入場券発売駅:名鉄一宮)

小学校入学前から乗ってきた名鉄全線を完乗したのは6年生のときで、完乗駅としたのが玉ノ井駅だった。特にこの駅にしたいと決めていたわけではなく、たまたま最後まで残ったのがここだったという感じだったように思う。

今振り返ると、今はなき岐阜市内線とか、揖斐・谷汲・美濃町線には、本当に玉ノ井以前に乗っていたのか?と思わないではないのだが、当時これらの線があるという知識はあったので、一応記憶は正しかったということにしておく(ちなみに、この時点で存在していた名鉄線には、これ以降すべて再乗していることを申し添える)。

 

○豊田市駅(三河線)

小学生から高校生のころまで、豊田市駅から出る稲武ゆきの名鉄バスに乗って、祖母の家までよく遊びに行った。母と2人で行ったこともあるが、大半がひとりであり、電車とバスを乗り継いで往復するのが楽しみだった。

祖父は私が2歳の時に亡くなっており、長く祖母がひとりで住んでいた。お盆の時期には親戚一同が集まるというのが恒例で、それ以外にも、年末年始やゴールデンウィークなど、孫の中でもかなりの頻度で通ったのではないかと思う。祖母には大変良くしてもらったし、親戚で集まって従兄弟たちと遊んだり、親戚の色々な話を聞いたりと、楽しい思い出は尽きない。

稲武まで行く名鉄バスは、現在は豊田市が運営するバスに転換され、祖母とともに記憶の中の存在となっている。

 

○黒笹駅(豊田線/入場券発売駅:浄水)

大学の最寄りだった駅。入学当時は駅周辺には何もなく、駅前広場も未整備だった。周辺が発展したのは卒業してからである。

豊田線を走る電車も、入学当初は4両編成であり、沿線に高校・大学が多かったことからかなりの混雑だった。そのうち6両編成になり、運行頻度も20分から15分になった。ちなみに当時、桜通線は中村区役所(現:太閤通)-今池までであり、野並まで延伸したのは大学4年の年度末だった(当時のアルバイト先のひとつが今池にあり、今なら御器所乗り換えの最短経路で行けるものの、当時は伏見まで大回りして乗り換えていた)。

大学はその後、都心回帰の流れを受けて名古屋市中村区に移転してしまったので、当時の痕跡は何も残っていない。

2023年1月 1日 (日)

2023年は穏やかにスタート

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

名古屋の元日は晴天で寒さも緩め。

元日午前中の我が家の恒例行事は、近所の神社まで歩いて初詣に行くこと。

今年はお神酒と昆布のふるまいが復活していたので、ありがたくいただいてきました。

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三が日は自宅でのんびり過ごし、英気を養うつもりです。

2022年12月25日 (日)

3年ぶりの「市民の『第九』コンサート」

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3年ぶりに「市民の『第九』コンサート」が開催され、舞台上で合唱団の一員として歌うことができました。

コロナ禍で一昨年は合唱団募集はされたものの練習開始前に中止、昨年は6月から練習は始まったものの、夏場の感染拡大を受け、8月に中止が決定。

今年は練習開始が7月、本番が12月と、例年より1か月遅れ、合唱団の人数も約半数の200人となり、何とか無事に開催されました。

第1楽章から舞台で演奏を聴いていましたが、第1楽章が始まった時は何とも言えぬ感動というか、久しぶりの感覚にいろいろな思いがよぎります。「この時を待っていたんだ」という思いが一番強かったかな、と思います。

マスクをしたまま歌うという、これも初めての経験で、客席に声が届くようにと、指揮者の川瀬賢太郎さんの情熱に導かれて、例年以上に気合を入れて歌ったつもりです。

 

コンサートに関わったすべての方に、感謝の気持ちでいっぱいです。とにかく、開催できてよかった。

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終演後は、観に来てくれた友人たちと忘年会で、アフターコンサートも楽しみました。

 

会場の日本特殊陶業市民会館も、クリスマスのイルミネーション。いつものコンサート後には観られない光景で、これもいい思い出になりそうです。

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<市民の「第九」コンサート2022>

★当日配布のプログラムより

 

【プログラム】

ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン作曲

交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付」

 

【演奏】

指揮:川瀬賢太郎

管弦楽:名古屋フィルハーモニー交響楽団

独唱:ソプラノ 岩田千里

   メゾ・ソプラノ 相可佐代子

   テノール 安 賜勲 Johannes

   バリトン 森 寿美

合唱:市民の「第九」コンサート2022特別合唱団

2022年8月15日 (月)

2022年、戦没者追悼式の日に思う

8月15日、いわゆる終戦の日(いわゆる、と言うのは、8月15日は正午の玉音放送で国内に敗戦を宣言した日に過ぎないから。実際、沖縄や千島・樺太や旧満州では戦闘が続いている。戦争が終結したのは、降伏文書に調印した9月2日であることを明記しておく。)に思い出す一文がある。

「戦争反対の論拠は、『戦争などをすると汽車旅ができなくなり、その結果、原稿の注文はまったくなくなり、生活できなくなるよ』という単純明快なものだ」(種村直樹『快速特急汽車の旅』日本交通公社出版事業局、1993年、P194)

初出は1985年に出された個人誌に寄稿されたもので、当時中学生だった私は個人誌を読んでこの一文に触れたが、当時は随分お気楽な理由だと思ったものである。

でも今は、本質をついた言葉だと思うようになった。

戦争になったら、私が好きな、旅を楽しむ、アイドルのライブに行く、相撲を観る、などということは真っ先に吹っ飛ぶ。

不急不要の移動は禁止され、アイドルや相撲は戦意高揚に利用されるだろう。戦前の日本がそうであったように。

そうなることは絶対に避けなければならず、戦争へつながる動きには断じて反対する。そして、再び戦争への道を歩まぬためには、歴史に学ぶしかない。

ロシアのウクライナ侵略の経過に日中戦争を、第2次安倍内閣成立以降の政治には昭和10年代の日本を思い起こす。記録の世界、知識の世界だと思っていたことを、まさか追体験することになろうとは全く思わず、言い知れない不安や怒りを感じている(私的には、このことにピンと来ないというのは、いかに歴史を知らないかという告白に他ならないと思っている)。

戦没者追悼式での天皇のおことばと、過去の反省に触れることもなく全く心に響かぬ首相の式辞。
戦争によって、どのような悲惨な被害を受けたかということとともに、日本の加害について直視し、反省することが、戦没者に対する追悼になり、二度と戦争をしないという決意になると改めて思う。

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