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2014年11月24日 (月)

種村直樹さんを偲ぶ

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レイルウェイ・ライター種村直樹さんが、去る11月6日に亡くなった。

私にとっては、趣味の鉄道旅行の先生であるのに留まらず、人生において大きく影響を受けた大恩人と言える方で、訃報に接して2週間以上が経つが、今も心に大きな穴が開いたようで、寂しさが拭えない。


種村先生との出会いは1984年、中学1年生の時。
図書館で著作『種村直樹の汽車旅相談室』に触れ、先生の世界に引き込まれ、その他の著作も借りまくって読みふけり、先生は私にとってたちまち「憧れの人」となった。
「汽車旅相談室」は、その憧れの人に直接手紙を送って質問できる、というもので、すぐさま質問の手紙を送り、返事が来たときは「本当に来た」と感動したものである。

先生の旅は、読者と一緒に旅を楽しむというスタイルが多く、紀行関係の著作に読者が実名で出てくるのをうらやましく感じ、私も、先生に近づけたらいいな、名前を覚えてもらえれたらどんなにいいだろう、という思いを抱いた。
そして、読者サークル「種村直樹レイルウェイ・ライター友の会」の存在を著作を通して知り、先生に入会方法を質問して、事務局へ入会希望の手紙を書いて入会した。


先生に初めてお目にかかったのは1986年4月、中学3年生のとき。
名古屋の鉄道100周年にちなみ、CBCラジオ「ばつぐんジョッキー」の公開放送が笹島貨物駅跡(現・ささしまライブ)で行われ、かつてこの番組のパーソナリティを務めていた先生がゲストで出演。
番組終了後、新幹線で帰京する先生を見送りに、名古屋駅ホームまでついていったことを鮮明に覚えている。

友の会では、毎年のように先生が参加する汽車旅イベントが有志で開催されており、初めて参加したのは中学3年生の夏。
国鉄最後の夏で、北海道から九州までの鈍行乗り継ぎの旅が三重県から関西を通過するのに合わせ、2日間参加している。
先生の周りは常に多くの読者が取り囲んでおり、話しかけるのも至難の業。
それでも、なるべく先生の近くの席に座り、周りの人が少なくなるのを見計らって、そばに寄って話しかけたり、著書にサインをもらったりと、何とか先生の息吹を感じようとしていた。
この時、イベントの幹事を務めておられたのは大学生の方々だったが、あまり世間を知らない中学生から見ると相当大人に思え、幹事を務める人というのはすごいなと感じた。また同時に、どこかで漠然と「こんな風になれたらいいな」とも思っていた。


高校生になり、夏休みにはイベント開催に合わせて、未知の土地への旅行を楽しんだ。
1987年、1年生の時は、翌春廃止となる青函連絡船に乗って北海道へ。
1988年、2年生の時は東北へ行き、この春開業した青函トンネルを通った。
大学生になってからも、イベントに合わせて未知の路線や土地を訪ね、世代を超えた旅仲間も増えるなど、どんどん世界が広がっていった。

イベントに付き物なのが、最終日の夜の「一泊会」で、かなりのお酒を召した先生と、参加者たちとで遅い時間までいつも盛り上がり、私も大人になったような心持がしたものである。
とりわけ印象に残ったのは、翌朝、朝食会場に現れた先生の、昨夜のお酒が全くなかったような、シャキッとした様子。
「大人の酒の飲み方というのはこういうものか」と妙に感心し、これは今まで自分自身の心掛けとしているつもりである。

イベントの他に、年に2回開催される友の会主催の読者の集い「おしゃべり会」にも参加し出すなど、積極的に活動するようになったこともあってか、大学に入る前あたりから、先生にも、顔と名前を覚えていただけるようになった。
関東や関西に比べて、名古屋からイベントに参加する読者が比較的少なかったことに加え、関東や関西在住の同学年の人たちが数多くいたことが、先生の印象に残った理由ではないかと思う。
その意味では、きわめて恵まれた環境にあったと言え、先生が引き合わせてくれたこの同学年の十数人とは、今でも親交が続く、かけがえのない仲間となっている。

そして、1992年夏に行われた、100人程が参加する7泊8日の乗り継ぎイベントの幹事の一員に名を連ねることとなった。大学3年生の時である。
中学3年生の時の乗り継ぎ旅への部分参加から6年、参加者の立場で触れた、当時の幹事がなさっていたことも思い出しながら、また、他の幹事や参加者、とりわけ同学年の仲間に支えられながら務めたことは、忘れ得ぬ貴重な経験である。
このほか、「おしゃべり会」の司会を大学生時代に1回、社会人時代に3回務めさせてもらったが、これらを通してイベントの廻し方というのを私なりに経験したことも、大きな財産になっている。


現在の私があるのは、先生が導いてくれた仲間との出会い、これらの経験の賜であり、感謝してもしきれない。
(余談だが、2001年に現在の自治体職員に採用され、最初の職場となったのが、中学1年生の時に先生の著作と出会った図書館だったことには、因縁を感じずにはいられなかった。図書館勤務の3年間、仕事の合間に書庫へ行って、先生の古い著作に親しんだものである。)

著作にも何度か名前を出していただいたし、仕事場へもお邪魔したり、旅のお供を何度かしたりと、社会人になっても「憧れの人」先生にお目にかかることは楽しいことであり、嬉しいことであった。


先生からは、著作を通して、あるいは直接に、鉄道旅行の楽しさはじめ、物の見方を教わった。また、先生と接し、イベントに参加することで、集団での振る舞い方とか、年上の方への礼儀といったことも自然に身に着いた。

先生に出会ってなければ、「趣味は鉄道」というのは今まで続いていなかっただろうし、JR全線完乗や日本の鉄道全線完乗を果たすこともなく、これほど温泉好き、蕎麦好きにはなっていないと思う。例え続いていたとしても、偏狭な視点しか持てない、単なる鉄道マニアになっていたかもしれない。


先生は2000年に病に倒れた後、残念ながら著作に精彩を欠き、行動力にも衰えがみられるなど、かつてを知る者にとって、間近でそれを見ることはとても寂しいものがあった。

2010年末に再度倒れてからは、病院で療養生活を送られ、お話を伺うことも、執筆することもかなわなくなった。好きなお酒も、たばこもたしなめなくなった。行動派だった先生だけに、ご自身に対してもどかしい思いもおありだったろうと思う。
何度かお見舞いに伺ったが、私の顔や話すことはお分かりになったようで、喜んでいただいた(と勝手に思っている)。

今年に入ってからはなかなかお見舞いに伺えず、11月15・16日と、観劇で上京するのに合わせて久々に伺おうと思っていた矢先の訃報であった。



11月11日に通夜が、12日に告別式が東京で執り行われた。
せめてもの感謝の思いを表すべく、お花を供えさせてもらうとともに、通夜だけは午後3時間の時間休暇を取って何とか参列し、先生に最後のお別れをすることができた。

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葬儀場には生前の写真や直筆の原稿、数々の著作が飾られ、昔に思いを馳せるとともに、久しぶりに会う旅仲間もたくさんいて、先生に導かれた縁を感じた通夜だった。

いつかはこういう日が来ることは分かっていたものの、やはり寂しい。
恩返しもできないままであったが、鉄道を愛し、温泉でのんびりし、蕎麦を味わい、旅先の郵便局で貯金をすることで、感謝の念を捧げ続けたい。


先生は、今頃、黄泉の国で、先に旅立った読者たちと、思いっきり汽車旅を楽しみ、温泉に入り、お酒やたばこを存分に味わっておられることでしょう。
折に触れ、先生がお好きだったお菓子をお供えに、線香をあげに行きますので、楽しみにしていて下さい。


種村先生、本当にありがとうございました。

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