お知らせ
最近更新が滞りがちですが、記事にしたいネタは多々あるわけでして・・・。
ぼちぼちと埋めていきつつ、新しい話題があれば順次更新していきたいと思いますので、時折のぞいていただければ幸いです。
←ちなみに、Twitterは比較的更新頻度が高いので、見ていただければ幸いです。
引き続き、よろしくお願いします。
コロナ禍が収まらない中で迎えた2021年。
早く平穏な日々が戻ることを願いつつ・・・。
さて、今年も元日は近所の神社に初詣。
人出は例年並みですが、いつもあるお屠蘇やスルメなどの縁起物の振る舞いはなし。
さて、例年だとあとは寝正月、という感じなのですが、今年は熱田神宮の御垣内参拝券をいただいており、三が日のうちでなるべく人出の少ない日に行こうかと思っていました。
ライブカメラを見ると、今日は比較的人が少ない感じだったので、夕方近くの時間を狙い、15時過ぎに参拝に行くことに。
やはり参拝客は例年の半分もいない感じで(ニュースによると、年越しの時間は割と多かったようですが)、全く規制もなく本殿前へ。
本殿前も楽に最前列へ進むことができました。
いつもの正月も、このくらいの人出だと参拝するにはちょうど良いのですが。
御垣内へ参拝後にいただいた、撤饌(おさがり)の菓子。
久々の更新になりました…。
今年は新型コロナウイルスが猛威を振るい、いつもと全く違う生活を余儀なくされている。
まさか夏の盛りにマスクをつける生活が続くとは思わなかったし、趣味的側面で言えば、私自身、1月末以来旅をしていないという、受験生時代以来の事態になっているのをはじめ、毎年合唱団に応募してた「市民の『第九』コンサート」も中止。
現状について言い出せばきりがないが、今回はかねてお盆の時期に書きたかったことを綴る。
私も4度目の年男を迎えたので、それなりに黄泉の国へ逝った人を、身内も含め何人も見送ってきた。
お盆の時期に限らず、故人を知る人が集まれば思い出話に花が咲き、これが結構楽しいものである。
一方で、それとは別に、時折ふと頭によみがえる友人知人が4人いる。
それは、不慮の死を迎えた人と、自ら死を選んだ人だ。
このうち、後者の2人については、かつてこのブログでも触れている。
★Aさんのこと
突然のショックと悲しみ(2010.10.18)
http://miyap.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-d2e3.html
★B君のこと
同級生の訃報(2011.8.11)
http://miyap.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-e4aa.html
青空の下で(2011.8.15)
http://miyap.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-d919.html
Aさんは、私より6歳下だが、2001年に同期入社した人のうちの1人。
最初の職場が同じところだった(私は事務職、Aさんは専門職だったので部署は違うが)こともあって、妹のように見ていたところがあった。お酒が好きな人で、独身時代のお酒に関するエピソードは面白く、結構強烈に覚えているし、他にもいくつか印象に残る出来事がある。
あまり具体的には書けないが、「色んな経験をしてそうだから相談に乗って欲しい」と言われ、採るべき道について飲みながら話したこともあった。
最後に会ったのはAさんが産休に入る直前で、「育休が明けたら、また飲もう」と言って別れたのが今生の別れになってしまった。
あとは上記の記事を読んでいただきたいが、当時は書かなかったことがひとつある。
それは、私が同じ世界へ逝って出会ったときには、まずはひっぱたいてやりたい、と思っていることだ。
私もかつて同じような心境に追い込まれたことがあるので、相当辛いことがあったんだろうなということは、少しは実感として分かるところもある。
それでも、この思いは変わらない。
B君については、上記2つの記事に尽きる。
1つ付け加えるなら、通夜でお坊さんが説いたことは、仲間内で今でも実践していることである。
空に向かって「まだ話題にしてやってるんだぞ、ありがたく思え!」という言葉を投げつけたい。
間違いなく、我々が死ぬまで話題にし続けるだろう。
あと2人のうち1人は、上記2人と同じく自ら死を選んだ人。
その人(Cさん)は、かつての上司だった人で、15年ほど前にこの世の人でなくなった。
私が部下だったのは2年弱だが、割と良くしていただき、またどこかで一緒に仕事ができればと思っていた人だった。
訃報は、Cさんが異動されて数か月後のこと。
当時「なぜだ…!」という思いで告別式に参列し、怒りに近い感情で、棺に入ったご遺体を見たこと、そして、お父様があいさつの中で述べられた「彼には生きる力がなかった、ということだと思う」との一言を今でもよく覚えている。
最後の1人、Dさんは、宿直勤務中に強盗に襲われて亡くなった。
もう20年以上前になるが、犯人は検挙されておらず、いまだに自分の中で区切りがつかないところがある。
Dさんは6歳上で、鉄道趣味のサークルで知り合った方(ちなみに、このサークルはB君はじめ、私にとって多くの友人知人との出会いの場となった)で、名古屋在住の方。
それで私的には勝手に比較的近い存在に感じ、憧れのお兄さん的な感じで見ていたところがあった。その縁で、サークルの同人誌に追悼文を書く役を引き受けることにもなっている。
Dさんの訃報は、亡くなり方もあって、かなりショックだった。推測するに、正義感が強かった方なので、おそらく強盗と果敢に戦ったのではないだろうか。逃げ出していれば、ひょっとしたら助かっていたかもしれないが、それはDさんは絶対選ばなかっただろうなと思う。
事件現場は今は跡形もなく、全く別の建物が建っている。当時も今も時折この近くを通ることがあるが、そのたびにDさんのことが頭をよぎる。
このようなことを、今でもふとした拍子に時々思い出す。
これも、自分なりに「忘れないことが最大の供養になっている」と思い、改めて亡くなった方へ哀悼の意を表したい。
(ということを、一度書いておきたかった訳でして。今年ようやくできました…。)
名古屋・栄にある中日ビルが今日閉館し、53年の歴史に幕を閉じた。
老朽化で建て替えは避けられず、いつかはこの日が来るとは分かっていたが、私自身、中日ビルは子どものころから最も親しんできたビルであり、閉館はとてつもなく寂しい。
すでに1月末でほとんどの入館施設は営業を終えていたものの、閉館前の3日間は「さよなら見学会」が開催され、ビル内の主要施設が開放されることになった。
なかなか粋な計らいで、これはぜひとも行かねばと、最終日の今日、中日ビルへ足を運んだ。
見学会の様子とともに、思い出を記しておきたい。
見学会の受付は1階で。ここで、クリアファイル(先着500人のみ)と、リーフレットをもらう。
(リーフレットの表紙は「地球の歩き方」風だが、地球の歩き方編集室から許諾を得ている旨、裏に注釈があった)
エレベーターでまずは屋上へ。エレベーターガールが復活しており、多分OGさんだろう。
屋上は夏季にビアガーデンとして開放されており、私も何度か行ったことがある。
かつては回転レストラン「ばるーん」があったが、2000年代初めに閉店してしまった。
(左下の写真の右側にあるのが回転レストラン跡。)
12階は「クラブ東海」。会員制サロンゆえ、入ったのは初めて。ここの大会議室は、中日ドラゴンズ関係の会見が開かれた場所でもある。
9階は中日劇場。
高校生の頃からミュージカルや芝居を観に何度も通ったが、どこに座っても観やすい劇場だった。
名古屋に専用劇場ができる前は、劇団四季の公演は中日劇場で上演されていたのでよく行ってたし、「レ・ミゼラブル」の最初の公演を観たのもここ。
建て替え後のビルに劇場が造られないのは残念である。
昔をしのびながら座席に腰を下ろすと、しばらく動けなかった。もう二度と来ることはないかと思うと寂しい。
5階は中日パレス。ここも宴会やイベントで何度となく利用した場所だが、心地よく過ごせた記憶しかない。
4階は中日文化センター・医療コーナー・全国センター。
中日文化センターは大学3年・4年とアルバイトしたところ。大変居心地がよく、勤務も学生の自主・自律に任されていたいい時代だった。
もう四半世紀前ゆえ、当時とは様子が随分変わってしまった。文化センターは移転して今も健在だけど、学生バイトはなくなってしまったと聞いた。
医療センターは数件の医院が入居しており、何度も入れ替わりがあった。
通院したことはないが、昔、伯母がここで看護婦(まだ看護師とは称していない時代)として勤めており、名古屋市内に住んでいた唯一の親戚だったこともあって、大変良くしてもらった。勤め先に行ったこともあるし、ビルの1階で待ち合わせて食事をごちそうしてもらったことも何度もある。その伯母も4年前に亡くなり、中日ビルも閉館とあって、完全に昔の思い出となってしまった。
全国センターは各県の事務所が入っていて、何度か観光パンフなどをもらいに行ったところ。
1階を通り越して、地下2階へ。
中日ビルへは地下街から入ることが大半で、ここが玄関のようなものであった。
中日ビルには飲食店も数多く入っていて、私もよく利用させてもらった。
とりわけ利用したのがあんかけスパゲッティの店「チャオ」で、入居施設の中で唯一今日まで営業。
敬意を表するのとお名残をあわせて、昼食はここで。
チャオ自体は市内にいくつか店があるが、この地からなくなってしまうのには特別な思いがある。
食後、1階ロビーへ。
ここも待ち合わせによく使った場所で、思い出がいろいろ頭を巡り、何度かロビーと外を行き来してしばし佇んだり、写真を撮ったりして、しばらく立ち去り難かった。
なお、大理石やタイルで描かれた天井画は、建て替え後のビルに残されるとのこと。
ロビーの一角にメッセージボードがあって、多くの人がそれぞれの思いを書き記している。普段はまず書かないが、私も謝意を書き残した。
思い出がいっぱい詰まった中日ビル。
閉館は残念だけど、最後に来られてよかった。
さようなら、そしてありがとう、中日ビル。
3月23日、長らく不通だったJR山田線宮古-釜石間が復旧し、三陸鉄道に移管される(営業運転は24日から)。
また、各地でかさ上げ工事も進んでおり、表面上はようやく復興の姿が見えつつある。
震災の翌年から現地を見てきた身にとっては感慨深く、率直に喜ばしいのは確かである。
一方で、8年経っても、いまだに時が止まったままのところもある。
今目を向けるべきは、光の部分だけでなく、そうした影の部分、また、悲しみが癒えなかったり、孤独になっていたりする人の気持ちに寄り添うことだと思う。
今日で29年度は終わり。
仕事では3年ぶりに異動のない年度代わりとなりました。
今年は残留を強く望んでいたのでそれはいいんですが、周りの異動状況は予想外。ただでさえ難問山積の30年度、キツさが更に増した感はあります…。
でもやるしかない。
それはそれとして、3月初旬は寒いくらいだったのに、先週くらいから一気に暖かくなり、桜も3月が盛りの様子。
もう散り始めているし、入学式までは持たなさそうで、春の風物詩が早く終わるのは残念。
そして、三菱東京UFJ銀行の社名変更は明日からのはずだけど、看板は一足早く「東京」の文字が消えていました。
ちなみに私が持ってるこの銀行のキャッシュカードは、東海銀行のまま現在に至っています。
そういえばJR三江線も今日限り。
乗った回数は少ないけど、思い出はそれなりにあります。
沿線の潮温泉に泊まったり、宇都井駅にもバスを使って立ち寄ったり。
またひとつ、足跡が消えてしまうような気がして寂しいというのが正直なところです…。
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